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第十話 天流会 (座学編)

Author: 春埜馨
last update Last Updated: 2025-09-29 12:05:45

 |道玄天尊《ダオシュエンてんずん》は、高級な絹の|裳《も》を引き摺って登壇する。

「皆、無事に到着したようだね。疲れてはいないかい? 私は皆の顔が見れないけれど、皆の内丹の気を頼りに見ているよ。私はここの長を勤めている|道玄《ダオシュエン》だ。本日よりふた月ほど、皆の成長を見させてもらうね。まずは皆、自己紹介をしてくれるかな?」

 |裳《も》と同じような滑らかな声に、柔和温順な雰囲気が重なると、赤ん坊を見ているかのように癒される。

 包帯に巻かれた少し窪みのある目の枠から、慈悲深く憐憫のような眼差しを感じるのは何故だろう。

 |墨余穏《モーユーウェン》は、しばらく|道玄天尊《ダオシュエンてんずん》の不思議な力に見惚れてしまい、他の修士たちの自己紹介は耳に入ってこなかった。

 自分の番が回ってきていることにも気づかず、そのまま道玄天尊を眺めていると、隣にいた|張秋《ジャンチウ》に肩を突かれた。

「|墨逸《モーイー》、ねぇ、|墨逸《モーイー》。君の番だよ。自己紹介」

 |墨余穏《モーユーウェン》はハッと我に返り、机にあった筆を床に落とすほどの慌てぶりで、自己紹介を始めた。

 |墨余穏《モーユーウェン》の自己紹介が終わり、残り三人の自己紹介が終わると、さっそく座学で使用する分厚い道教経典と天台山の符門善書が配られた。

 話しを聞いていると、どうやらこの経典に付随する符道の座学をこのひと月で、残りのひと月は道術、内丹の強化、実践という流れになるらしい。

 それにしても、この経典の分厚さ……。

 親指の半分ぐらいはあるぞ……。

 |墨余穏《モーユーウェン》はパラパラと紙を捲りながら目を細める。

「さて、皆の前に揃ったかな? ここには特殊な能力を持つ修士たちが軒並み揃っているからね、さっそく鍛錬の一環として、このひと月でこの符門善書を全て暗記してもらおうと思う。七日過ぎるたびに採点も行うからね。皆の力を信じているよ」

 (げっ……、採点?)

 |墨余穏《モーユーウェン》は目を更に細め、大きく息を吐く。

 本殿が溜め息に包まれる中、陽だまりの中で咲く花のように|道玄天尊《ダオシュエンてんずん》は温かな笑みを湛えながら、上座の席へ腰を下ろした。

 しばらくすると、背後にある出入り口の扉が音を立てて開いた。二人目の講師の登場だ。

 一斉に向けられたその視線の先には、眩いほどの絶世の美女が立っていた。誰もが釘付けになるほど修士たちも騒めき、|墨余穏《モーユーウェン》もその容姿端麗な姿に目が止まった。

 決して若くはないのだが、洗練された佇まいが全ての生き物の目を惹きつけるようだ。

 |墨余穏《モーユーウェン》は、ふと、後ろを振り向いていた|師玉寧《シーギョクニン》の顔を見る。すると、思わず吹き出してしまうほど、瞬きも忘れた死んだ魚のように硬直しているではないか!

 (はははっ。美人も美人に惹かれるんだな。|賢寧《シェンニン》兄も負けてないぞ)

 |墨余穏《モーユーウェン》は硬直している|師玉寧《シーギョクニン》に向かって、手をひらひらとさせながら白い歯を見せた。

 突然何かに解き放たれたかのように|師玉寧《シーギョクニン》の視線がふと、|墨余穏《モーユーウェン》の方に向く。

 黄玉のような鳳眼と、まだ幼さの残る石ころのような黒い瞳が弾くようにぶつかり、一瞬何かを感じた気がしたのだが、|師玉寧《シーギョクニン》は冷たく避けるようにすぐ正面に向きを変え、登壇に立っている絶世の美女に目を向けた。

 (はぁ。もう少し笑ってくれたりしてくれてもいいのに。まぁ、俺のような人間は嫌いか……)

 もう声を掛けたりするのは控えようと|墨余穏《モーユーウェン》は唇を尖らせていると、登壇から鶯舌が響いた。

「皆さん、初めまして。今日から座学を担当する|香翠《シィアンツイ》と申します。楽しく学びましょうね、よろしくお願いします」

 |張秋《ジャンチウ》が隣から耳を寄せる。

「さすが、|道玄天尊《ダオシュエンてんずん》の妹さんだね。とっても気品があって美しい先生だよ」

 |墨余穏《モーユーウェン》はゆっくり首を縦に動かしながら、あの人が父ちゃんの春画を燃やした人か……、と心の中で呟いた。

 こうして、|香翠天尊《シィアンツイてんずん》による本格的な講義が始まった。

『丹を服し、一を守れば、天と相い畢る。精を還し、胎息すれば、寿を延ばすこと極まりなし』━︎━︎。

 他の修士たちの中には、夜な夜な遊び呆けてこの課題から逃げている者もいたが、|墨余穏《モーユーウェン》は当たり障りなく顔だけを出して、与えられた部屋に戻り机に向かった。

 |豪剛《ハオガン》のように、やる時はやる男だ。

 七日目の採点は無事合格。十四日目の採点も何とか無事合格。しかし、二十一日目の採点はどうしても解けない難問があり、追試となった。

 |墨余穏《モーユーウェン》は頭を抱える。

 |葉風安《イェフォンアン》に聞いてみるものの、当の本人も追試の難問に頭を抱えており、明確な答えを導き出せなかった。

 追試が明日に迫る晩、煮え切った|墨余穏《モーユーウェン》は一人庭先に出て、夜空を見上げながら頭を冷やしていた。

 (あぁ……。本当に何が間違っているのか分からない。全て読み合わせているのに何でだ? あ〜、父ちゃん。教えてくれよ……)

 そう|墨余穏《モーユーウェン》が項垂れていると、前方から何やら人影が見える。その人影を目で追うと、湯浴みを終え、色白の肌をほんのり赤らめた|師玉寧《シーギョクニン》が突然現れた。

 それはまるで、月明かりの下から現れた天女のようだ。

 飾らないあまりの美しさに、|墨余穏《モーユーウェン》は目の奥を引っ込める。

 |墨余穏《モーユーウェン》は術で口を塞がれたかのように言葉を失い、その場で立ち尽くしていると、金玉の声がその緊張を静かに解いた。

「何をしている?」

「お、シェ、|賢寧《シェンニン》兄〜。いや、ちょっと頭を冷やしてて。明日追試なんだけど、ある問題が全然解けなくってさ〜」

 |墨余穏《モーユーウェン》は頭を掻きながら、少し恥ずかしげに言う。どれも満点を叩き出してしまう完璧な|師玉寧《シーギョクニン》を前にすると、情けなさが募り何故か気まずさが増していく。

「|賢寧《シェンニン》兄と違って、俺は頭悪いから……。あ、ごめん。こんな所で引き留めて。早く部屋に戻って。湯冷めしちゃうよ」

 |墨余穏《モーユーウェン》が帰るよう促すと、|師玉寧《シーギョクニン》は仏頂面で「どこが分からないんだ?」と聞き返した。

 突然の返しに面食らった|墨余穏《モーユーウェン》は、自室に|師玉寧《シーギョクニン》を連れていくことにした。

 部屋に入り、文机の上に置いてあった追試の紙を|師玉寧《シーギョクニン》に渡す。

「これのどこが間違ってるのか分からないんだ……。|賢寧《シェンニン》兄なら分かる?」

 |墨余穏《モーユーウェン》は、|師玉寧《シーギョクニン》の答えを待った。渡された紙を|師玉寧《シーギョクニン》は舐め回すかのように目を細めて見る。

 すると、突然|師玉寧《シーギョクニン》は|墨余穏《モーユーウェン》を机の前に座れと促した。

「え? なになに? もう答え分かったの?」

「筆を持て」

「筆? あ、うん」

 |師玉寧《シーギョクニン》はそう言って、|墨余穏《モーユーウェン》の背後にピタリと張り付き、|墨余穏《モーユーウェン》の筆を持つ手に自らの手を添えた。

「いいか、一、ニ、三、四、五、六、七、八だ。ここに八本目の線が入っていない。元々の篆書が間違っている。あと、この呪符の符頭は八つの点じゃなく、十個の点だ。ここにこう添えればいい」

「……う、うん」

 |墨余穏《モーユーウェン》の身体は思わず強張った。

 全身に電流が走るかのような、この胸の高鳴りと騒めきはなんだろう……。

 目線をほんの少し横にずらすと、|師玉寧《シーギョクニン》の淡い白皙の顔がすぐ真横にあるのが分かる。

 もし見つめあったりなどしたら、それが例え不慮であっても、薄紅色の花弁に唇が当たってしまうかもしれない。

 そう思うと、|墨余穏《モーユーウェン》は顔に今まで感じたことのない含羞の色を浮かべた。

「他は全て合っている。明日の追試はそれで大丈夫だろう」

 |師玉寧《シーギョクニン》はそう言って、|墨余穏《モーユーウェン》から離れ、そのまま残り香だけを残して部屋を出ていった。

「あ、ありがとう……。|賢寧《シェンニン》兄……」

 本人に聞こえたかどうかは分からないが、|墨余穏《モーユーウェン》は|師玉寧《シーギョクニン》の背中に向かって、礼を言った。

 部屋に残された|墨余穏《モーユーウェン》は、筆を持つ右手に自分の左手を添えた。さっきまで確かにあった|師玉寧《シーギョクニン》の温もりをもう一度確かめるように…。

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Comments (2)
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春埜馨
郁さん、いつもありがとうございます♡︎ʾʾ 登場したキャラたちは、今後も出てきますので ぜひお見知り置きください... まだ幼なさ残る墨余穏の可愛い部分が、私も書いてて微笑ましく思いました(笑) また来週も楽しみに待ってていただけると嬉しいです...️
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Eve郁
今回もあっという間に読んでしまいましたっ……! 気になるキャラもたくさん登場し、学生ならではのイベントも……♡ 墨余穏くん、活発そうなのに、ちゃんと勉強しててえらいっ笑 そして学生時代の2人の交流(触れ合い?)、微笑ましいです……甘酸っぱくて、こちらが照れてしまいました(笑) また続きを楽しみにしております〜!!(早く来週になれっ!)
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